「アアナッテ、コウナッタ」~わたくしの履歴書~ 小池玲子ブログ

第2話 父のこと

2019.08.15

「三つ子の魂百まで」良く聞く言葉だ。
意味は幼児の時の性格を生涯引きずるという意味だそうだ。しかし幼年時代に受けた精神的、物理的影響はその人の人格形成に大きく影響すると思う。もって生まれた物と、後からついた物それぞれのせめぎ合いから子供の魂が創られるのでしょう。


私の魂を形成した物は何だろうと考えると、4つ思い浮かぶ。一つは持って生まれた先天的血。2つ目は父、3つ目は8人兄妹の末に生まれた事、そして4つ目は母の死...。

父と母の写真。


まず父について。
父は明治生まれの国文学者で、家の絶対権力者だった。正義感が強過ぎたのか、正しいと思うことを主張しすぎ、学界では嫌われて、不遇であったのではと今にして思う。が、完璧主義者で並外れた 努力家でもあった。山東京伝の南総里見八犬伝13巻を岩波文庫から出版し、70歳を過ぎてからも「新資料による西鶴の研究」(風間書房)1034頁にも及ぶ著書を出版した事でもその執念、努力のほどが解る。


国文学者だった父。古いアルバムより。


明治生まれの典型的暴君。お風呂も、新聞も、食事も、父が先ず一番。食事の仕度ができた事を、書斎で仕事中の父に知らせに行くのはいつも一番下の私の役目だった。
 
「お父様、お食事の用意ができました。」
 
その知らせを聞いてから、父は通常30分は仕事を続け、全てのおかずが冷えきった頃、やっと書斎から出てきて、箸をとる。父が箸を取らないと誰も食べ始めることができなかった。オーバーに言えば小池家の子供は温かい作りたての夕食を食べたことがなかったのだ。


困ったことに父は子供達にも、自分と同じ努力と完璧さを要求した。幼くして母を失った私を、父は大そう可愛がってくれたと、今にして思うのだが、当時の私にしてみれば甘えられるという存在ではなかった。父に向かうときは、子供ながらいつも緊張していたように思う。

幼稚園のお友達と(右端:玲子)。日記のように私の様子が細やかに記録されている。


こんな明治の遺物的な父だったが、一つ面白い信念を持っていた。それは女性も経済的に自立しなければならないという考えであった。「自分の力で生きてゆけない女性は、夫に何かあったとき悲惨な状況に陥るから」というのがその理由であった。父の命令は絶対服従であるから、上のふたりの姉は、ピアノと英語をそれぞれ専攻し教師となった。


父の口癖は『よっちゃんは何になるの?』でした。この質問は幼稚園の頃から発せられ続け、私は常に自分が何になるのかを自問せねばならなかった。


私は、幼稚園の頃は絵が上手と言われていた。 『玲子ちゃんのお父様は絵描きさん?』なんて他の子のお母さんから褒められ、得意になっていた。画家になる選択肢がこのころ芽生えた。

当時のお絵描き。


小学生になると、作文が得意でいつも褒められた。実は嘘ばかり書いていたのだが(笑)。4年生の時には、小説を書いた。父親の原稿がよく載っていた日経新聞の文芸欄宛てに、自分が一番出来が良いと思われる小説を送ったのだ。


その頃、『若草物語』という少女向け小説を読み、4人姉妹の次女が小説を出版社に送る場面があり、原稿と一緒に「少しでも原稿料が欲しい」という手紙を同封しているのを読んで、自分の原稿にも「掲載されなくてもいいから原稿料を下さい」という手紙を添えて出した。私は大真面目だったのだが、 受け取った日経の担当者は大笑いした事だろう。原稿は送り返されて、まずい事に父に見つかってしまった。どんなに怒られるかと思ったら、父は何も言わず、後で聞いたところ、小学校の私の担任の先生に自慢したそうだ。こんな事もあって、幼い私は小説家も将来の選択肢に加えた。


父と小学生の頃の私。


父の言葉に押されて、自分の将来をいつも見つめ続けているうちに、私は自分を客観的に見るようになっていた。その結果、自分は何になりたいかではなく、自分の力にあった道を進むしかないという結論に達した。


自分は画家にも小説家にもなるような飛び抜けた才能、情熱はない。ごくごく普通の人であると。そして勉強もあまり興味がない。でも自分は好きなことなら努力できる。努力してなれる職業を選ぶ方向にシフトしようと考えたのだ。


父がもう一つ、私に課したことがあった。幼い頃、私はよくふらふらとあてもなく、歩き回って、夜になっても家に帰らず、大騒ぎで探されることがあった。父は怒らず反省文を書くように私に命じた。なぜそういう悪いことをしたのか、どういう理由と原因があり、その結果として何が起こったかということを考えて書くように命じたのだ。こんな反省文を何枚書いたことだろう。

ただ、このことは後になって私の仕事の上で大いに役に立った。