第3話 8人兄弟の末っ子
2019.09.01
私が生まれ育ったのは東京都、新宿区、西落合。
その頃は新宿と言っ ても外れのはずれ、畑と雑木林が点在する静かな屋敷町だった。近くに店屋は無く、私が中学生の頃までご用聞きが来ていた。(ご用聞きとは、酒屋や八百屋が一軒一軒の家の勝手口をまわり注文を取りに来る。)
坂の上の日当りのよい家で私は4人の兄、2人の姉の下で育った。本当は8人兄弟だったが、すぐ上の姉は幼くして亡くなっていた。いちばん上の兄とは12歳違い。12歳の差の中に何と7人が詰まって、毎日家の中で生存競争を繰り広げていた。まさに戦前の典型的な大家族である。
兄弟みんなで。
長兄は長男故、兄弟から『お兄様』と呼ばれていた。
小学生一年の頃、私は体が弱く、学年の三分の一は家で寝ていたと思う。昼間の我が家は兄と私の二人きり。なぜかその頃、兄はいつも家にいて勉強机に向かっていた。時々ふらっと外に出てゆき、帰ると必ず「目をつぶってごらん」といい顔の上にキャラメルやガムをバラバラと落としてくれた。
温厚で優しい性格。長男故にか、いつも何やかやと父に叱られていた。いつも、いつも正座して黙って俯いて叱られていた姿が浮かぶ。しかし何十年後かに知ったことだが、彼は父親に対して激しい憎悪を燃やしていたのだ。
長姉は私より10歳年上。
思うに母の性格を一番引き継いでいて、暖かくやさしかった。ピアノを勉強していたが、その頃、兄が悪口で、「あまりセンシティブでない故、ベートーベンなどを力ずくで弾くのが得意」と言っていたのを子供心に覚えている。
毎晩、毎晩、応接間から聞こえるピアノの音で眠りについた。その頃停電がしょっちゅうあったが、暗闇の中で練習する姉を子供心にすごいと思った。私にとっては一番怖い存在で、母代わりだったので、成績が悪いことが露見すると、何時間も前に座って勉強させられた。
次男の兄は一番頭が良く、家族の中で一目置かれていた。それ故か、ニヒルで自分の世界に閉じこもっていた。大学受験で、父が望んだ東大を受けず教育大を受けたことがバレて、家中の大騒動となったこともあった。
三番目の兄は、個性の強い兄弟の陰に隠れて、自己主張することなく、私にとって印象が薄かった。農業が好きで農業に従事することを望んでいた。
次女の姉は5歳年上。美人で頭がよく、気が強く、父に容姿も性格も似ていて、父の自慢だった。彼女からはたくさんのネガティブを学んだ。長姉が私を可愛がるのが不満で、いつも目が届かないところで、素早くいじめられた。頭が良いので、子供心が傷つく意地悪な言い方がうまかったのだ。一番下の兄と組んで、替え歌を作ってはいつもからかわれ、私は悔しくてよく泣いた。
一番下の兄は、すぐ上の姉(次女)と仲が良く私は全く無視されていた。ただ食事の時、隣に座って食べるのが遅い私のおかずをしばしばさらっていった。長兄たちに対しての反発心は強かったと思う。長じて一番格好に気を使うおしゃれな兄でもあった。
兄弟同士で暗黙のうちにグループが形成されていたように思う。私は遊びやゲームの仲間に入れてもらえずいつも「お味噌」扱いだった。しかし彼らの会話や、行動、失敗などを、そばでみたり聞いたりして一人前の兄弟のつもりでいた。
小学校4年生の頃。
小説を訳も分からずにひたすら読むようになったのも兄弟の会話に参加したいためだった。井伏鱒二の「山椒魚」、太宰治の「人間失格」など訳も分からず読んでいた。ちなみに我が家には父の方針で漫画がなかったので、読み物は日本文学全集しかなかった。昔の本には全てルビがふってあったので、小学校低学年でも読むことはできた。
子供が生まれて初めて会う他人は兄弟だ。我が家は私にとって、個性あふれる他人と揉まれ付き合う学校だったのである。