「アアナッテ、コウナッタ」~わたくしの履歴書~ 小池玲子ブログ

第4話 母の死

2019.09.15

私の子供の頃の心象風景を創ったもの、それは母の死も大きく影響しているようだ。
 
母は、私が3歳の時に亡くなった。その時のことは全く覚えていないはずであったが、幼い心の奥が克明にその時のショックを覚えていたことを、成人になって知り、愕然とした。

 
父と母の写真。
 

私はヒューヒューという風の音で、いつも言い知れぬ不安を感じた。
例えば楽しいデートの時、彼の運転する車に乗っていても、窓から入る風のヒューヒューという音で、なぜか突然言い知れぬ不安に駆られた。台風の時の風の音はなおさらだった。世の中が終わるような、心の底からの不安感に揺さぶられた。
 
成人してから、私より10歳上の姉が「お母様が亡くなる前の晩、風が吹いて、吹いて、亡くなった顔にうっすら土埃がかぶっていた。」と思い出を話してくれた。
 
母が亡くなったのは4月。戦後すぐ家の前は畑で、赤土がむき出しになっていたのだろう。それを聞いて自分が長年理解できなかった、不安の何たるかが解明されたと思った。風の音、それは死というものがわからず、母が突然いなくなってしまった時の幼い記憶、その不安が風の音とともに、私の心に深く刻まれていたのだ。母の顔も覚えていないのに、子供の頃の記憶は潜在意識となって私の中に生きていたのだ。


  
幼少期お友達と。(真ん中下が私) 
 
それはともかく、母がいなかった私の小さな頃は、全くの自由であった。年上の兄姉達は自分の事で精一杯だったし、父も自分の仕事に没頭していた。何が悪くて何をしてはいけないと、きびしく管理する人が私にはいなかった。

学校は、家から子供の足で15分ほど歩いて、西武線(今の西武池袋線)の東長崎駅、そこから終点の池袋駅。都電の17番数寄屋橋行きに乗って、大塚窪町、そこが学校の正門。子供の足でその頃は1時間以上かかった。帰りは逆に池袋まで都電。帰り道の池袋は冒険の魅力に満ちていた。

池袋の西武はその頃木造の2階建。ランドセルを背負ったまま、まず店内をぶらぶら。そこで遊んでいた子供と仲良くなって、その子の家に行ったこともある。池袋の西口。木造の小屋のような階段を上がって戸を開けると、そこは畳、女の人と男の人が寝ていた。起き上がった女の人が「なにこの子」と言ったのを覚えている。学校の制帽と制服、ランドセルを背負った子はまさに「なにこの子」だったのだろう。
 
私といえば、玄関のない家、我が家の物置よりも小さな家にびっくりし、スタコラさっさと逃げ帰った。その頃の池袋西口はヤクザや浮浪児が闊歩するまさにドヤ街であったと後で聞いた。


兄弟も父親も知らないところで、毎日様々な冒険をしていた。学校帰り池袋は、私にとって、良い意味の社会勉強の学校だった。多分母が生きていたらこのような経験はせず、おとなしい良い子でいたと思う。


学校ではお母さんのいない可哀想な子として見られていた。
教育熱心な父兄が多く、美しいお母さんたちが私に優しい眼差しを向けていてくれた。私もその可哀想な子を演じていたと思う。本の中の世界が好きで、半分いつも夢を見ているような状態にあったのかもしれない。勉強は全くしなかったが、ただ一つ小学校の図書館の本を全部読んで卒業しようと勝手に決心し、図書館に入りびたった。
 
今でいう落ちこぼれに近かったのかもしれないが、私の通っていた学校、もしくはその当時の学校はおおらかで、そんな変な子も包み込んでくれる暖かさ余裕があったように思う。こんなふうに私の子供時代は始まった。
 
学校で見せる陰気な淋しげな顔、放課後にみせる顔、父親の前で見せる顔、兄弟の間で聞き耳をたてる顔。たくさんの顔を無意識に持つことで、私の幼年期は過ぎて行った。