第21話 ダイヤモンドの深謀遠慮(2)婚約指輪は給料の3ヶ月分
2020.07.01
デビアスの仕事が始まって、若かった私は彼らの仕事のやり方を知るにつけ、「さすが大英帝国。植民地を長い間コントロールしてきただけのことはある」と、妙に感心した。
何故なら外資の大企業が日本進出した場合、必ず母国の本部から社長が送られ常駐するが、デビアスの場合はそれがなかった。指名した広告代理店の中に、プレス対応のインフォメーションセンターと業界対応のプロモーションセンターを置き、そこをロンドンの本部にあるセンターがコントロールした。
これは各国共通で、デビアスからは2ヶ月に一度担当が来日するだけであった。もちろん代理店側からも1ヶ月に一度ロンドンに出向き会議を行った。まさにリモートコントロールであった。その代わり、彼らは徹底的に日本人のマインドとその背景にある生活習慣を調査し、日本人のマインドに合わせた戦略を立てていったのである。
デビアスの名前が日本のメディアに登場したのは、昭和41年時計工芸新聞という業界紙であった。翌年には事務所開設(インフォメーションセンターとプロモーションセンター)のアナウンスが15段見開きで続いた。この昭和41年とは「マイカー元年」と言われた年。新中産階級を中心にマイカー族が増え始めた年である。それは日本の経済が戦後を脱し、高度成長、経済大国への道を歩み始めた年でもあった。まさにそこに焦点を当ててきたのである。これからの日本経済の可能性を見越し、スタートしたのであろう。
すでに日本のダイヤ市場をデビアスが調査と伝える記事
「昭和42年から活動開始」を伝える新聞記事41年2月11日
見開き30段での広告この時ダイヤモンドのデザイン賞募集も発表
彼らは事務所開設と同時に、カタログを発行している。その中にはすでに手厚いジュエリーショップへのサポートが記されていた。
パレスホテルで開かれた発表会で関係者に配られたカタログ
最初の数年、彼らはアメリカで得た経験をもとにダイヤモンドの婚約指輪のキャンペーンを行なったが、今一つ伸びがなかった。当然である。日本人にはもともとダイヤモンドに対する知識がなく、一般のダイヤモンドに対しての認識といえば、あの「金色夜叉のお宮・貫一」の「ダイヤモンドに目がくらみ」のフレーズか、「イギリス王室の冠についているでっかいダイヤ」くらいだったから。
ダイヤモンドの婚約指輪を買うにも一体いくらのものが良いのか、全く見当がつかなかったのである。
そこで彼らは代理店から示された一つの調査の結果に飛びついた。当時の日本では、婚約の印として「結納」の儀式が一般的であった。その儀式では花婿から花嫁に結納金というものが渡され。その標準的な価格は、花婿の給料の2ヶ月から3ヶ月分であった。もちろん地域的には差があったが。
「婚約指輪は給料の3ヶ月分」は地道な調査と代理店とデビアス社の間でのタッグマッチの末生まれた。これはのちに郷ひろみの婚約に関してのコメントでより広まった。